悪い奴について

年末に夫婦で黒澤明の映画を観まくるパーティをしていたんですが、「悪い奴ほどよく眠る」を観てたら、これに出てくる悪い奴が、あまりにも悪い奴過ぎるもんだから、妻は寝込んでしまった。

寄せては返す、悪い奴の悪い奴っぷりが最高潮に達し、『終』の文字が画面にでる頃には、「うーんうーん」と唸っていた。

 

この映画に出てくるいちばん悪い奴は、画面には映らない。

一番出番が多いのは、『まあまあ悪い奴』である。まあまあ悪い奴が、黒い電話機で話している、その向こう側から、一番悪い奴の静かな声が聴こえてくるばかりなのである。

一番悪いやつが、地獄の底にいるのか宇宙空間にいるのか、常夏の島にいるのか、定かではない。画面にはとうとう映らない。ただ、電話が繋がるだけなのである。

悪い奴っていうのは度を越すと、目には見えなくなっちゃうもんなんだなあ。

 

この映画の主人公は、悪い奴らに戦いを挑むわけだけど、結局、彼は敗北してしまう。なぜか? こいつは自分で思っているほど悪い奴じゃないからである。本当は優しいのである。優しいから負けちゃう。

 

主人公は、べつに、対して悪くない癖に、自分のことを悪いやつだと勘違いしている。本当は、世の中の悲しいことについて、悲しんだり泣いたりする気持ちを、心のどかで捨てないで持っている癖に、悪い奴と同じ土俵で勝負しにいくから、負けちゃうのである。すきだらけである。

彼はいつもサングラスなんかかけていたけれど、微妙に似合っていない。本当は優しいことが、悪い奴にバレないように、隠してそうとしているだけだからである。

 

本当に強くて魅力的な人というのは、世の中が腐っていたとしても、その腐っている上にしっかり立って、あっけらかんとしている。

たとえ、寿命があと数日だったとしても、いつもどおりにお昼寝をしたり笑ったりしているものだ。

 

この世は腐っているって、そんなの当たり前なのに。おまえに言われなくたってわかりきっているのに、それなのに、腐っていることに思い悩んで、悲しんで、なんとかそれを変えたい、覆したい、みたいなことを考えていると、本当に大事なものを失なってしまったりする。

これは普遍的な物語のひとつなのかもしれないな。

 

人間にとって、この世を良くしたい、みたいなジャスティスな気持ちは、余計なものなのかもしれない。心のなかにジャスティスさを抱えたままだと、本当に誰よりも強くない限りダメである。

 

生きるか死ぬかのところで、「おれはめっちゃジャスティスやねん」みたいな、とるに足らないことに固執してる奴は、だいたい死んでしまう。

  

たとえば、永井豪先生のデビルマンも、どっちかっていうと「デビル」じゃなくて「マン」の方を大事にしているような奴だったために、最終的には何もできずに敗北してしまう。

しかし、「おれはめっちゃジャスティスやねん」ということに殉じて死んでいくことは、なぜか美しい。なぜか憧れる。

人は何故かデビルマンを見て「名作やなー」とか言う。不思議である。

 

しかし、僕も大人になったし、世の中が腐ってないという嘘に騙される歳でもないし、誰がどう見ても、辺り一面、腐りきっている中で、「あっはっは。むっちゃ生きるのっておもろいな」っていうかんじで笑ってる人間のほうに感動して泣いてしまう。

モンスターについて

モンスターっていうやつが、いったいどこから来て、人間が愛してるものや動物たちと何が違うのかは、誰も教えてくれないんだけど、とにかく、モンスターっていうやつのことは、嫌いになったり、この世の悪いことは全部モンスターのせいにしたり、パンチしたりキックしたり、天地がひっくり返るまでジャンプして踏んだりしてもok、ということになっている。

モンスターっていうやつは、「何回くらいこいつをぶっ叩いたらいなくなっちゃうか?」 ていうのが、だいたいわかる数字がついていて、その数字がゼロになるまでぶっ叩くと、そのモンスターはいなくなる。

数字が0になるまでモンスターをぶっ叩くと、まるで遠くの誰かに何かを知らせるように、画面が眩しく光ったり、なにかが弾けたり、点滅したりして、まあ、綺麗だね。って思ったのも束の間、後には何も残らない。最初から誰もいなかったかのように、モンスターはいなくなっている。後には、葉っぱ一枚、小銭一枚、残さない。もう二度と、会えない、電話番号も、聞いてない。

もちろん、別れがあるからこそ、友情のようなものは美しいと僕も思うのだけど、モンスターの場合、角を曲がれば、さっきと似たようなやつがまた出てくる。

「はじめまして!」

さっきと同じやつにはもう会えないんだな。、という情緒的感覚を麻痺させてくる。それがモンスターである。

 

これまでに数値がゼロになるまでぶっ叩かれたモンスターは何匹くらいおるのだろうか。おそらく、数える価値もない、というのが答えになりそうだ。だっていくらでもわいてくるわけだから。

 

「このLoveを190個集めたら、めっちゃキラキラしたモノと交換できるんだ。だけどLoveをひとつもらうためには、もんすたを1090匹ぶっ叩かないといけないんだ。地道な作業よ。Loveっつーのは、もんすたを叩くとでてくるやつのことで、何とかはなくて、ただの数字で、意味なんてなくて、いわゆる無形リソースってやつで、なぜもんすたを1090匹ぶっ叩いたらLoveがでるかなんて、そんな知らんよ。答えなんてないよ。でも出るんだからしょうがないじゃん。わたしのせいじゃないし」

 

 

 良い必殺技っていうのは、簡単に真似できそうな感じがしないといけない。
子どもの頃に見た必殺技に、「ライダーキック」というやつがある。これなんかは、ただライダーがキックをするだけ。「ライダーキック!」と、叫びながら、キック。このキックだけは特別なキックなんだって、強く信じて、キック。これだけ。誰だって、形だけは真似ができた。
つまり、ライダーキックっていうのは、ただライダーがキックするだけなんだけど、めちゃめちゃ痛そう。なぜかというと、ライダーだから。という理由ももちろんあるが、実は、どちらかというと、キックを繰り出している人よりも、キックを浴びせられた人のほうが、よほど特別なことをしていた。だって、怪人なんて、痛いとか痛くないとかの話じゃなくて、爆発しちゃうからね。あのとき僕はたしかに見た。テレビの中の、キックをされた怪人が、子どもが見逃しちゃうくらいのほんの束の間、悲しそうな表情を浮かべ、次の瞬間、それをかき消すかのような、笑っちゃうくらいの、もう二度と彼は元には戻ってこれないんだなって、今日、一度だけ、この時間にしか出会えない怪人だったんだなって、わかってしまう、そんな、出会いと別れが入り混じったような、ため息がでるほどの、美しい爆発。それを見ながら、僕達は、「ああ、ライダーキックって、理屈とか抜きに、とにかくめちゃくちゃ強いんだな」と、理解する。これは、ライダーキックだけを見ても、なにもわからない。めちゃめちゃ痛がって爆発しきってくれる奴がいてこそ特別なものになる。繰り返しになってしまうが、キックそのものは、「ライダーキック!」て叫びながら、ただキックするだけ。そこが良いんだよな。誰だって、「ライダーキック!」て叫びながら、キックを出すことはできるから、なんとなく、必殺技を繰り出したときの自分を想像できる。たとえ、爆発してくれる相手が目の前にいなかったとしても。
複雑すぎて、説明書を見ないと真似ができないような必殺技は、なんか憧れないし、記憶に残らない。誰だって、簡単に心の中で真似できる部分がないと。
真似できるけど真似できない。それが必殺技ってことっすわ。

僕は電子書籍をほぼ買ったことがないし無料で提供されていても全く読まなかったり、紙の本と比べて執着がかなり弱いんですけど、それは何故かというと、やっぱり、死なないからかな。と思う。
たとえば、サバンナでライオンに襲われたら死ぬから、常にライオンの一挙一投足に注意を向ける必要があると思うんですけど、ライオンのデジタルデータがどんなにがんばっても 僕を殺せないじゃないですか。もっと言えば、コミックビームの角で頭を全力で殴られたら生存の危機かもしれない。自分の身体と物理的な物との関係は、物理的な身体で生きている生き物である以上、強く意識せざるを得ない。それが生き残る可能性を上げてるからどうしようもなく紙の本の存在が発する影響がでかいのではないかな。
もしかしたら、インターネットのSNS上とかでなんらかの形で死にかけることによってデジタルコンテンツとの距離がちぢまるかもしれない

ぱんち

きっくぱんち
ぱんち
ぱんちきっく
ぱんちぱんちきっくぱんち
きっくぱんちぱんちきっく
きっく
ぱんち
めつぶし
きっくきっくぱんちぱんちめつぶしきっくきっく
ぱんち。

じゃぶじゃぶ
じゃぶじゃぶストレート
じゃぶじゃぶじゃぶ
じゃぶ
じゃぶでもストレートでもないぱんち
じゃぶ
ストレート
じゃぶじゃぶじゃぶでもストレートでもないぱんち。
じゃぶでもストレートでもじゃぶでもストレートでもないぱんちでもないぱんち

業務日報 2014年3月12日

テニスの試合を皆がやってるとするじゃないですか。
僕はラケットをもってなくて、「元祖天才バカボン」二巻のDVDを右手に持っている。服は一応動きやすい格好をしている。
僕はみんながラケットを持っているのにDVDを持ってきていることを個性的だから良いなと思っていて、自画自賛している。でも、バカボン二巻でボールを 打ったら、バカボン二巻が割れてしまうことを知っているから、絶対に試合には参加しない。でもそのことで悲観したりはしない。むしろ、おれが持っている道 具の方が上だ。と、ラケットを持って必死にボールを追っている人達を見下している。一方で、皆僕のことを嫌いなのでは?と常に心配している。バカボン二巻 しか持ってないから。その不安に耐えるために、ボールを追っている人達のことを見下していないといけない。だから、テニスに参加す るわけにはいかない、本当はテニスをしたいからここに来たし、仲間に入りたいし、テニスのやり方を質問したい。でもできない。バカボン二巻のDVDを捨てることになるのが怖すぎる。まずバカボン二巻を持ってここに来てしまった僕を認めてもら わないと、僕から歩み寄ることができない。だから、僕は、バカボン二巻のDVDでテニスの試合に勝ちたいと思う。対等な条件で試合すらしていないのに、認めてもらうために勝ちたいと思う。
僕は、審判に近づいていって、「一点くれ一点くれ一点くれ」と唱え続けている。まだ一度もボールを打っていない。

て感じの人生なんです。でももうこれやめたいんです。

number girlのOMOIDE IN MY HEADという曲を聴いての感想

 スーパーファミコンでマリオを操っているとき、Yボタンを押しながらマリオを右に進ますと、えらい速く走ることに気づく。そのやり方で走らせていくと、マリオは足の回転が天才すぎて穴に落ちることがある。すごいスピードで画面が右へスクロールしていたのに、その流れが急にストップした、と思ったら、「あ!マリオがいない。マリオが穴に落ちてるっ!」ってなる。当時、個人的に不思議だな、と思ったのは、みんな気づいていると思うけど、マリオはちゃんと前を見てた、ということだ。たとえば、オリンピックを見てたら一人だけめちゃめちゃ足が速い奴がいてびっくりしたと思うけど、彼でさえゴールテープを切った後はちゃんとブレーキをかけていたので偉い。
 ようするに、何が言いたいのかというと、前方にくそでっかい穴があるのに、「GO! GO! GO! GO! GO!……」ってなったまま走っていっちゃう人の気持ち、っていうものが、もしも、本当にあるとしたら、それについて考えてみてほしい。
 マリオ先輩は簡単に言うとトランス状態だった。というか、まったく別の言い方をすれば、number girlOMOIDE IN MY HEADをイヤホンで爆音で聞きながら、マリオは右に走って行ってたんだと思う。そういうふうに解釈したときに見るあのマリオの走りっぷり。あれを聞きながら、パンチなし、キックなしの特別ルールでクリボーを踏んずけてぺっしゃんこにして亀を跳ね飛ばして、ダッシュでマリオはマリオワールドを感性のまま行ったり来たりしていた。そしてマリオは穴に気づかなかった。


 僕は、最近、通勤中にもっぱらイヤホンで音楽を聞くようになってしまった。電車に乗っているときも、歩いているときもずっと聞いていて、その間、外からと体内からの雑音をかき消して、ただ耳をふさいでいる。特に何も考えてない。
 ある日の帰り道、僕は最寄り駅を出て、徒歩5分の家へ続くほぼ直線の一本道を、いつものように歩いていた。
「まったく、世の中のやつらときたら、バカばっかりだよ!」
 とでも言いたげな横柄な態度で、足が記憶しているいつもの道のりをまっすぐ進んでいた。ずんずんいった。300メートルくらいは、まっすぐ行った。通行人とすれ違ったり、追い抜いたりしながら、信号は無視しながら行った。300メートル? ふと、僕は、歩くのを止めて、立ち止った。なぜだかはわからないけど、全くいつもと同じ感じで歩いていたはずなのに、知らない場所に立っていたからだ。僕の家は、こんなに遠くない。いつもより歩いたはずなのに、それなのに、家とは遠ざかっているようだ。全く逆方向の別の場所に立っている。
 どうも僕は、駅のいつもの出口じゃなくて別の出口を出てしまっていたのだけど、それに気がつかなかったみたいだ。
 後日、ちょっと僕は、疲れているんだなー。なんて言って、この話を誰かにした気がする。でも、本当は、僕は、number girlのOMOIDEIN MY HEADを聞きながらずんずん歩いていたから、目的地とかどうでもよくなっていて、行った。300メートルくらい行った。逆の出口を300メートルくらい行った。本当はもっと行けた。