虚構について

 言ってはいけない言葉。投げてはいけないボール、宇宙へ飛び出してはいけないロケット、撒いてはいけないお薬、入ってはいけない柵の中。お墓に入るまでに次世代に手渡さなければいけないはずのこと。知っているそぶりも見せてはならない秘密、投げてはいけなかったボム。はじめてもいけなかったし、終わらせてもいけなかったし、一度はじめてしまったらもう止められないあと4秒のカウントダウン。曲がってはいけなかった曲がり角。
 
 とにかく現実の世界ってやつは、やってはいけないことがありすぎて、覚えきれない。
 もちろん、我々も、がんばってはいるのだが、いくら僕達が情に厚く真面目だからといっても、0.1%くらいの確立で、曲がってはいけなかった曲がり角を曲がってしまう。

 ちょっとかしこい猿のほうが、「バナナとか食べたいな」みたいな重要こと以外は、適当に気分次第で行動するために、よっぽど正解の道を引き当てる可能性が高い、という研究結果がある。
 考えれば考えるほど、何かから遠ざかるっていうことがある。正解を引くには、一秒で選ばないといけない。そのときたまたま信じている理屈にすがっているようではダメ。これが正解だという裏づけは、一時の安心でしかなくって、掴んだ途端に消えている。
 長期に渡って、すこしずつ正しい方向に向かっていくためには、むしろ、間違えなければいけない。まったくもって、正解とはとても思えないような、当てずっぽうの行動をしてみせることで、理屈の端の端だとおもっていた余白が広がり、何か新しいもので埋まっていき、堆積して土になり、そこから思わなかったような勘が育まれていく。モンテカルロ法ってやつかもしれない。夢の中にでてくる食べ物をもってかえってくるような。
 麻雀がめちゃめちゃ強い人によると、そうした感覚を得るための方法論は、一秒以内に判断をすることらしい。一秒以内に、体中を使って、全体重を乗せて、感じていない方向の感覚を探りあてて、見えてはいないものを見る。その繰り返しで、正解を引き当てる勘というものが長い時間をかけて育っていく。
 しかし、現実の中で、一秒以内に重要な判断をしてみせられる人間なんて、麻雀がめちゃめちゃ強い人たちくらいだろう。

 

 今日、かわりに僕達は、虚構の世界というものをもっている。


 外は雨が降っているけれど、ゲームの中は、今日も晴れている。

 「そうです。ここは虚構の世界です」みたいな色をした空が、どの角度から見てもおんなじグラデーションで横に広がっている。僕は、あらかじめ決められている、絶対に行くべき方向つまり「右」へ歩いていく。


「Hello」
 栗みたいな風貌をしたモンスターが、右から歩いてきて、挨拶をした。
「今日も良い天気ですね」
 彼は、かなり高い確立で、右から出てきて3秒以内に「ぽこ」という音を立てて潰されて頭から「100」と言い残して死んでしまうのだが、そういうことを悲観的に捉えてもいないし、死なないように頑張ろう、とも考えない。ただ、いま、天気が良い空の下を歩く、ということを単純にしているのだ。
 それができるのは、これがウソだからである。仮にこれが現実であれば、いくら彼が栗みたいな風貌をしているとはいえ、「死んじゃったらどうしよう」と心配して、「Hello」とか言ってこないはずだ。彼はもう何万回も、「ぽこ」と音を立てて潰されてどっかへ行ってしまう、ということを繰り返してきているわけだけど、必ず、また元通りになる。なぜなら、全てがウソだからである。何をやって、どう行動しても、絶対に同じ天気の良さのこの青い空の下に戻ってくる。つまり、彼は、虚構に守られている。
 この青い空は、天気が良いとか悪いとか、現実の世界においては場合によって都合が良くもなれば悪くもなる概念とはかけ離れている、そんな青さである。「とにかく青一色に塗っておくから、余計なことは全て忘れようよ」そういった表現のひとつなのである。それがここでいう「空が青い」ということの意味だ。
 どこにも行けないかわりに、やってはいけないことなんてない。
 今では、彼と僕は、元々あった役割を忘れて友達になっていた。
「ちゅうちゅうちゅう」
 彼は、ジュースを飲んでいる。
「なにを飲んでいるんですか?」
「わからん。わからんけど、なんかむらさき色をした液体。むかしから、むらさき色をした液体は、記号的には毒っていう意味みたいだけど、いちかばちか、何か今日は飲んでみたかったから、迷わずに一秒以内に判断して飲んでみた」
「へえ。めっちゃ毒みたいな色してますね。おいしいんですか?」
「うん。おいしいよ。いちかばちか、死ぬかもしれないとおもってたけど、ただの炭酸のぶどうジュースだった。この空の下では、むらさき色をした液体がすべて毒だと思っていたけど、そうでないこともある、ていうことが、今日わかったんだ」
 そんなかんじで、虚構の世界で遊ぶことで、一ミリずつ前進していく。みたいなかんじ。

 

 

悪い奴について

年末に夫婦で黒澤明の映画を観まくるパーティをしていたんですが、「悪い奴ほどよく眠る」を観てたら、これに出てくる悪い奴が、あまりにも悪い奴過ぎるもんだから、妻は寝込んでしまった。

寄せては返す、悪い奴の悪い奴っぷりが最高潮に達し、『終』の文字が画面にでる頃には、「うーんうーん」と唸っていた。

 

この映画に出てくるいちばん悪い奴は、画面には映らない。

一番出番が多いのは、『まあまあ悪い奴』である。まあまあ悪い奴が、黒い電話機で話している、その向こう側から、一番悪い奴の静かな声が聴こえてくるばかりなのである。

一番悪いやつが、地獄の底にいるのか宇宙空間にいるのか、常夏の島にいるのか、定かではない。画面にはとうとう映らない。ただ、電話が繋がるだけなのである。

悪い奴っていうのは度を越すと、目には見えなくなっちゃうもんなんだなあ。

 

この映画の主人公は、悪い奴らに戦いを挑むわけだけど、結局、彼は敗北してしまう。なぜか? こいつは自分で思っているほど悪い奴じゃないからである。本当は優しいのである。優しいから負けちゃう。

 

主人公は、べつに、対して悪くない癖に、自分のことを悪いやつだと勘違いしている。本当は、世の中の悲しいことについて、悲しんだり泣いたりする気持ちを、心のどかで捨てないで持っている癖に、悪い奴と同じ土俵で勝負しにいくから、負けちゃうのである。すきだらけである。

彼はいつもサングラスなんかかけていたけれど、微妙に似合っていない。本当は優しいことが、悪い奴にバレないように、隠してそうとしているだけだからである。

 

本当に強くて魅力的な人というのは、世の中が腐っていたとしても、その腐っている上にしっかり立って、あっけらかんとしている。

たとえ、寿命があと数日だったとしても、いつもどおりにお昼寝をしたり笑ったりしているものだ。

 

この世は腐っているって、そんなの当たり前なのに。おまえに言われなくたってわかりきっているのに、それなのに、腐っていることに思い悩んで、悲しんで、なんとかそれを変えたい、覆したい、みたいなことを考えていると、本当に大事なものを失なってしまったりする。

これは普遍的な物語のひとつなのかもしれないな。

 

人間にとって、この世を良くしたい、みたいなジャスティスな気持ちは、余計なものなのかもしれない。心のなかにジャスティスさを抱えたままだと、本当に誰よりも強くない限りダメである。

 

生きるか死ぬかのところで、「おれはめっちゃジャスティスやねん」みたいな、とるに足らないことに固執してる奴は、だいたい死んでしまう。

  

たとえば、永井豪先生のデビルマンも、どっちかっていうと「デビル」じゃなくて「マン」の方を大事にしているような奴だったために、最終的には何もできずに敗北してしまう。

しかし、「おれはめっちゃジャスティスやねん」ということに殉じて死んでいくことは、なぜか美しい。なぜか憧れる。

人は何故かデビルマンを見て「名作やなー」とか言う。不思議である。

 

しかし、僕も大人になったし、世の中が腐ってないという嘘に騙される歳でもないし、誰がどう見ても、辺り一面、腐りきっている中で、「あっはっは。むっちゃ生きるのっておもろいな」っていうかんじで笑ってる人間のほうに感動して泣いてしまう。

モンスターについて

モンスターっていうやつが、いったいどこから来て、人間が愛してるものや動物たちと何が違うのかは、誰も教えてくれないんだけど、とにかく、モンスターっていうやつのことは、嫌いになったり、この世の悪いことは全部モンスターのせいにしたり、パンチしたりキックしたり、天地がひっくり返るまでジャンプして踏んだりしてもok、ということになっている。

モンスターっていうやつは、「何回くらいこいつをぶっ叩いたらいなくなっちゃうか?」 ていうのが、だいたいわかる数字がついていて、その数字がゼロになるまでぶっ叩くと、そのモンスターはいなくなる。

数字が0になるまでモンスターをぶっ叩くと、まるで遠くの誰かに何かを知らせるように、画面が眩しく光ったり、なにかが弾けたり、点滅したりして、まあ、綺麗だね。って思ったのも束の間、後には何も残らない。最初から誰もいなかったかのように、モンスターはいなくなっている。後には、葉っぱ一枚、小銭一枚、残さない。もう二度と、会えない、電話番号も、聞いてない。

もちろん、別れがあるからこそ、友情のようなものは美しいと僕も思うのだけど、モンスターの場合、角を曲がれば、さっきと似たようなやつがまた出てくる。

「はじめまして!」

さっきと同じやつにはもう会えないんだな。、という情緒的感覚を麻痺させてくる。それがモンスターである。

 

これまでに数値がゼロになるまでぶっ叩かれたモンスターは何匹くらいおるのだろうか。おそらく、数える価値もない、というのが答えになりそうだ。だっていくらでもわいてくるわけだから。

 

「このLoveを190個集めたら、めっちゃキラキラしたモノと交換できるんだ。だけどLoveをひとつもらうためには、もんすたを1090匹ぶっ叩かないといけないんだ。地道な作業よ。Loveっつーのは、もんすたを叩くとでてくるやつのことで、何とかはなくて、ただの数字で、意味なんてなくて、いわゆる無形リソースってやつで、なぜもんすたを1090匹ぶっ叩いたらLoveがでるかなんて、そんな知らんよ。答えなんてないよ。でも出るんだからしょうがないじゃん。わたしのせいじゃないし」

 

 

 良い必殺技っていうのは、簡単に真似できそうな感じがしないといけない。
子どもの頃に見た必殺技に、「ライダーキック」というやつがある。これなんかは、ただライダーがキックをするだけ。「ライダーキック!」と、叫びながら、キック。このキックだけは特別なキックなんだって、強く信じて、キック。これだけ。誰だって、形だけは真似ができた。
つまり、ライダーキックっていうのは、ただライダーがキックするだけなんだけど、めちゃめちゃ痛そう。なぜかというと、ライダーだから。という理由ももちろんあるが、実は、どちらかというと、キックを繰り出している人よりも、キックを浴びせられた人のほうが、よほど特別なことをしていた。だって、怪人なんて、痛いとか痛くないとかの話じゃなくて、爆発しちゃうからね。あのとき僕はたしかに見た。テレビの中の、キックをされた怪人が、子どもが見逃しちゃうくらいのほんの束の間、悲しそうな表情を浮かべ、次の瞬間、それをかき消すかのような、笑っちゃうくらいの、もう二度と彼は元には戻ってこれないんだなって、今日、一度だけ、この時間にしか出会えない怪人だったんだなって、わかってしまう、そんな、出会いと別れが入り混じったような、ため息がでるほどの、美しい爆発。それを見ながら、僕達は、「ああ、ライダーキックって、理屈とか抜きに、とにかくめちゃくちゃ強いんだな」と、理解する。これは、ライダーキックだけを見ても、なにもわからない。めちゃめちゃ痛がって爆発しきってくれる奴がいてこそ特別なものになる。繰り返しになってしまうが、キックそのものは、「ライダーキック!」て叫びながら、ただキックするだけ。そこが良いんだよな。誰だって、「ライダーキック!」て叫びながら、キックを出すことはできるから、なんとなく、必殺技を繰り出したときの自分を想像できる。たとえ、爆発してくれる相手が目の前にいなかったとしても。
複雑すぎて、説明書を見ないと真似ができないような必殺技は、なんか憧れないし、記憶に残らない。誰だって、簡単に心の中で真似できる部分がないと。
真似できるけど真似できない。それが必殺技ってことっすわ。

僕は電子書籍をほぼ買ったことがないし無料で提供されていても全く読まなかったり、紙の本と比べて執着がかなり弱いんですけど、それは何故かというと、やっぱり、死なないからかな。と思う。
たとえば、サバンナでライオンに襲われたら死ぬから、常にライオンの一挙一投足に注意を向ける必要があると思うんですけど、ライオンのデジタルデータがどんなにがんばっても 僕を殺せないじゃないですか。もっと言えば、コミックビームの角で頭を全力で殴られたら生存の危機かもしれない。自分の身体と物理的な物との関係は、物理的な身体で生きている生き物である以上、強く意識せざるを得ない。それが生き残る可能性を上げてるからどうしようもなく紙の本の存在が発する影響がでかいのではないかな。
もしかしたら、インターネットのSNS上とかでなんらかの形で死にかけることによってデジタルコンテンツとの距離がちぢまるかもしれない

ぱんち

きっくぱんち
ぱんち
ぱんちきっく
ぱんちぱんちきっくぱんち
きっくぱんちぱんちきっく
きっく
ぱんち
めつぶし
きっくきっくぱんちぱんちめつぶしきっくきっく
ぱんち。

じゃぶじゃぶ
じゃぶじゃぶストレート
じゃぶじゃぶじゃぶ
じゃぶ
じゃぶでもストレートでもないぱんち
じゃぶ
ストレート
じゃぶじゃぶじゃぶでもストレートでもないぱんち。
じゃぶでもストレートでもじゃぶでもストレートでもないぱんちでもないぱんち

業務日報 2014年3月12日

テニスの試合を皆がやってるとするじゃないですか。
僕はラケットをもってなくて、「元祖天才バカボン」二巻のDVDを右手に持っている。服は一応動きやすい格好をしている。
僕はみんながラケットを持っているのにDVDを持ってきていることを個性的だから良いなと思っていて、自画自賛している。でも、バカボン二巻でボールを 打ったら、バカボン二巻が割れてしまうことを知っているから、絶対に試合には参加しない。でもそのことで悲観したりはしない。むしろ、おれが持っている道 具の方が上だ。と、ラケットを持って必死にボールを追っている人達を見下している。一方で、皆僕のことを嫌いなのでは?と常に心配している。バカボン二巻 しか持ってないから。その不安に耐えるために、ボールを追っている人達のことを見下していないといけない。だから、テニスに参加す るわけにはいかない、本当はテニスをしたいからここに来たし、仲間に入りたいし、テニスのやり方を質問したい。でもできない。バカボン二巻のDVDを捨てることになるのが怖すぎる。まずバカボン二巻を持ってここに来てしまった僕を認めてもら わないと、僕から歩み寄ることができない。だから、僕は、バカボン二巻のDVDでテニスの試合に勝ちたいと思う。対等な条件で試合すらしていないのに、認めてもらうために勝ちたいと思う。
僕は、審判に近づいていって、「一点くれ一点くれ一点くれ」と唱え続けている。まだ一度もボールを打っていない。

て感じの人生なんです。でももうこれやめたいんです。